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高歌哄笑-古賀武夫エッセー-


平成十五年初夏号「勝海舟~後進の書生に望む~」

勝海舟~後進の書生に望む~

幕藩体制瓦解の中、数々の難局を打開し、旧幕府側を代表して新政府軍の西郷隆盛と交渉し、江戸城を無血開城に導いて次代を拓いた勝海舟が、晩年歯に衣着せずに語った 「氷川清話」という本の中に、「後進の書生に望む」という一節がある。ちょっと長いが引用してみる。

なお、一部かなづかいを現代風に変え、言い回しも、分かりやすく変えている。

「顧みれば、幕末の風雲に乗じて起こり、死生の境に出入りをして、その心胆を練り、(中略)ついに王政維新の大業を成し遂げた元勲は、すでに土になって、 今はその子分どもが政治をとってはいるけれども、(中略)今の書生(=学生)の中に、この大責任に堪えるだけのものがあるか。

俺の見たところでは、今の書生たちは、ただ一科の学問を修めて、多少知恵がつけば、それで満足してしまって、さらに進んで、世間の風霜に打たれ、人生の酸味をなめようと 言うほどの勇気を持っているものは、少ないようだ。(中略)こんなことを思うと、俺は心配でならないヨ

天下は大いなる生き物だ。細切れの学問や、小知識では、とても治めていくことはできない。世間の風霜に打たれ、人生の辛酸をなめ、世の妙をうがち、人情の微を極めて、 しかる後、共に経世の要務を談ずることができるのだ。小学問や小知識を鼻にかけるような天狗先生は、仕方が無い。(中略)それ故に、後進の書生らは、机上の学問ばかりに 凝らず、さらに人間万事について学ぶ、その中に存する一種の言うべからざる妙味をかみしめて、しかる後に、机上の学問を活用する方法を考え、(中略)かくしてこそ、 初めて十年の難局に処して、誤らないだけの人物となれるのだ。

かえすがえすも後進の書生に望むのは、奮ってその身を世間の風浪に投じて、浮かぶか沈むか。生きるか死ぬるかのところまで泳いでみることだ。この試験に落第するような ものはとうてい仕方がない。」

解説はいらないと思う。この話は、明治三十年ごろのもので、今からちょうど百年程前のことである。現代の我々から見ると、明治の人間は、まさに豪傑と思えるのだが、 勝海舟からみると。幕末の風雲を駆け抜けていない明治生まれの人間は、使い物にならんということになる。いわんや、現在の教師、学生をや、である。

また、「禅と剣がおれの土台」という一節では、

「こうしてほとんど4年間、まじめに修行した。この坐禅と剣術がおれの土台となって、後年大層ためになった。(中略)勇気と胆力とは、この二つに養われたのだ。 危難に再会して逃れられぬ場合と見たら、まづ身命を捨ててかかった。しかして、不思議にも一度も死ななかった。ここに精神の一大作用が存するのだ。」

同じ勉強をして、高校大学に行くにせよ、勝海舟からは馬鹿にされても、少なくとも戦前の人間には、自分のため、親兄弟、みんなのため、社会、国の為という精神の健全さが あったのではないか。現代の親、教師、学生に、その意識はどのくらいあるのだろうか。我々が望んでいるのは、いい学校に行き、いい会社に入り、自分にとって安定した いい暮らしをすることのみではなかろうか。

勉強は誰のためか、生きるのは何のためか。人間はそれを考え、崇高な目的を発見設定し、実現できるように作られている。

ところで、花はなぜ美しく、人の心を打つのか、それは無心に咲いているからである。人間はそこまではなれないかもしれない。しかし、小さな我欲をできるだけなくし、 本当の欲、誠の大欲に広げ、少しでも人を喜ばせる花の境地に近づく努力はできるのではなかろうか。

私は三十才そこそこで、人生の師故吉田東州先生に初めてお会いしたころ、こう言われたのを覚えている。吉田東州先生は、人物を見抜く力では当代右に出るものはいないと 言われた方である。

「古賀君は、心配せんでもいい。」

ほっとして、将来が明るく見えてきた私に、続けてこう言われた。

「君は、決して大人物にはなれないから心配せんでもいい。君は、両親にも恵まれ、衣食住ことたり、何の苦労もなく、中学高校はおろか、大学まで出ている。大人物というのは、 もともと天が艱難辛苦を与えるものだ。君にはそれがない。決して大人物にはなれないから心配はいらん。」

私は、ある意味ではがっかり、しかし、次の瞬間、よし、苦労のない時代に生きているのであれば、苦労は買ってでもしてみたい、そして、自分がどこまで大きくなれるのか 見てみたい、そう思った。それを教えて頂いた吉田先生には、心から感謝している。

注:勝海舟(1823~99)。幕末明治期の政治家。海舟は号。日本の近代海軍の創設者。1860年、咸臨丸館長として太平洋を横断。維新後は、参議兼海軍卿、完全在野の 時期を経て、1887年伯爵、翌年枢密顧問官。明治政府の監視役だった。

参考文献:「氷川清話」(勝海舟/江藤淳、松浦玲編)

(平成十五年六月十七日 古賀武夫)